2016年6月2日木曜日

6/2(木) 赦し合い、和解し、仲良く暮らす秘訣




あなたを告訴する者とは、

あなたが彼といっしょに

途中にある間に

早く仲良くなりなさい。

そうでないと、

告訴する者は、

あなたを裁判官に引き渡し、

裁判官は下役に引き渡して、

あなたはついに

牢に入れられることになります。

  マタイの福音書5章24


イエスはさらに、
こんなことを言われました。

昔の人々に
『人を殺してはならない。
 人を殺す者は
 裁きを受けなければならない。』
と言われたのを
あなたがたは聞いています。

しかし、
私はあなたがたに言います。
兄弟に向かって腹を立てる者は、
だれでも
さばきを受けなければなりません。
兄弟に向かって
『能無し』と言うような者は、
最高議会に引き渡されます。
また、
『ばか者』と言うような者は
燃えるゲヘナに投げ込まれます。

と。これは、
どう言うことかというと、
実際に人を殺すという行動を
していなくても、
心の中で腹を立て、
『能無し』とか
『ばか者』のように
言葉に出して
相手を罵ったり、
嘲ったりしてしまうなら、
そのこと自体が罪なのですよ、
とイエスは教えられたのです。

そしてその罪は、
実際に人を殺すという
行為にまで行かなくても、
神様の前で裁かれ、
ゲヘナ、
わかりやすく言えば
地獄に落とされてしまいます。
と警告されたのです。

人を殺したことのある人は、
平和な今の時代には、
そんなにいないと思います。
でも、人に腹を立て、
ばかにしたり、
嘲ったりしたことは
あるのではないでしょうか???

私たちはこのままでは、
決して天の御国に
入ることはできない存在、
罪人なのですね。

イエスは
さらに続けて言われます。

「だから、祭壇に供え物を
 捧げようとしているとき、
 もし兄弟に恨まれていることを
 そこで思い出したなら、
 供え物はそこに、
 祭壇の前に置いたままにして、
 出て行って、
 まずあなたの兄弟と仲直りしなさい。
 それから来て、
 その供え物をささげなさい。」

と。供え物をささげるより、
まず恨まれている兄弟と
仲直りをしなさい
と言われました。

もちろん、
自分が恨んでいる
兄弟がいるなら、
その兄弟を赦して、
仲直りしなさいと
言われているのです。

イエス・キリストを
信じて生きるというのは、
難しい真理を解明する
ということよりも、
実際に生活している
職場や学校や家庭や地域
という現場で、
日々起こってくる
いろんないさかいや問題の中で、
イエス・キリストの
恵みと愛によって、
お互いに赦し合いながら、
ともに和解しあって、
仲良く暮らし、
生活していくことなのです。

そしてそれは、
イエス・キリストの助け、
神の霊である
聖霊の力がないとできませんね。

イエスはこう続けられました。

「あなたを告訴する者とは、
 あなたが
 彼といっしょに
 途中にある間に
 早く仲良くなりなさい。  
 そうでないと、
 告訴する者は、
 あなたを裁判官に引き渡し、
 裁判官は下役に引き渡して、
 あなたはついに
 牢に入れられることになります。
 まことにあなたに告げます。
 あなたは
 最後の一コドラントを
 払うまでは、
 そこから出ては来られません。」

と。誰かに訴えられたなら、
その人に告訴される前に、
とにかく早く仲良くなりなさい。
と言われています。

イエス・キリストは、
自分が赦すことと同時に、
自分が誰かに対して罪を犯し、
失礼をした場合には、
きちんとあやまり、
謝罪して、
自分も相手から赦されて、
和解して、
仲良くなることを
言われているのです。

赦しあうこと、
和解すること、
そして仲良くすること、
人が集まると、
必ずぶつかりや
軋轢(あつれき)が生じます。
親しい人であればなおさら、
気を許して
言いたいことを言ったり、
甘えが出て失礼な態度を
とってしまったりすることもあるでしょう。

私たちは弱い罪人なのです。
でも、だからこそ、
互いに赦し合い、和解して、
仲良く暮らし
生活していくことが、
とても大切なのです。

そして、
それは私たちの自分の力で
するには限界があります。

だからこそ、
イエス・キリストを信じ、
十字架で赦しを与え
和解を与えてくださった
このイエス・キリストの
恵みと愛の中で、
聖霊様の力をいただいて、
赦し、赦され、和解して、
仲良く暮らしていきましょう。

夫婦が赦し合い、
親子が和解し、
家族が一つになって
仲良く暮らす。

職場で同僚と赦し合い、
上司や部下と和解し、
本当に良い仕事をするために、
仲の良い明るい職場になる。

学校でクラスメートや
友達と仲直りし、
先生と和解し、
みんないっしょに仲良く勉強し、
いっしょに遊ぶ。

イエス・キリストは、
私たちの生活の現場に
本当の幸せ、赦しと和解、
...

2016年6月1日水曜日

6/1(水) 律法を全うされた方であるイエス・キリストを信じる










わたしが来たのは 

律法や預言者を 

廃棄するためだと 

思ってはなりません。 

廃棄するためにではなく、 

成就するために来たのです。


  マタイの福音書5章17節



イエス・キリストは、
律法ではなく、
信仰によって
人は救われることを
語られました。

でも律法は、
どうでもよいということを
言われたのではありません。

律法がなければ、
人は罪がわかりません。
律法は必要なのです。

しかし、
人は律法を守ることが
出来ないのです。
もちろん、
ある程度は
出来るかもしれません。

誠実に生きる人なら、
ほとんど守る人が、
もしかしたら、
いるかもしれません。

しかし、
完全に律法を
守り通すことは、
人間には出来ないのです。

人間は律法を
守り通せない罪人なのです。
だから、
人は本来、
天国には行けないのです。

しかし、
神の子であり、
神であられた
イエス・キリストが、

人となってくださり、
人として律法の全てを、
完全に全うして
生きてくださったのです。

だから、
私たちの罪の身代わりとなって、
十字架で
私たち人間の犯した
全ての罪の代価を、
その命によって、
支払うことができたのです。

律法は狭く言えば、
モーセの十戒ですが、
広く言えば聖書です。

聖書の原語は、
新訳聖書は
ギリシャ語で
書かれていますが、
旧約聖書は
ヘブル語で書かれています。

ヘブル語というのは、
一点一画が違うと、
全く違うことばと意味になります。

「律法の中の一点一画でも
 決してすたれることはありません。
 全部が成就します。」
とイエスは言われました。

つまり神の言葉である聖書は、
一点一画として、
永遠に変わることはない
真理の書であり、
神の言葉なのです。

だから、
この聖書の教えである戒めの
どんな小さいものの一つでも、
これを破ったり、
また、
破るように
人に教えたりする者は、
天の御国で、
最も小さい者と呼ばれるのです。

しかし一方で、
この聖書の教えを守り、
また人に守るようにと
教え導く者は、
天の御国で、
偉大な者と呼ばれるのです。

当時、
律法学者やパリサイ人は、
最も律法を守ろうとする
人たちでした。
でも、
「もしあなたがたの義が、
 その律法学者や
 パリサイ人の義に
 まさるものでないなら、
 天の御国には入れません。」
とイエスは言われました。

律法学者や
パリサイ人にまさる義、
人が肉で義を行おとするなら、
つまり
律法を自分の力で
完全に守ろうとするなら、
それは不可能です。
パリサイ人に
まさることも難しいでしょう。

では、
どうすればいいのでしょうか。

イエス・キリストは
律法を全うし、
義において完全なる人でした。
このイエス・キリストを
信じて、
自分の罪を悔い改める時に、
私たちは罪を赦され、
キリストの義をいただいて、
義において
完全なる者と
見ていただけるのです。
そして
天の御国に行くことが
できるのです。

だから、
イエス・キリストを
信じる時、
あなたの義も、
私の義も
完全なものとなり、
律法学者や
パリサイ人にも
まさる義となって、
必ず、
天国に行くことが
できるのです。




2016年5月31日火曜日

5/31(火) あなたがたは、世界の光です。








「あなたがたは、世界の光です。  

  山の上にある町は隠れる事ができません。」


       マタイの福音書5章14節


イエスはさらに言われました。

「あなたがたは、世界の光です。
 山の上にある町は
 隠れる事が出来ません。」と。

イエスは続けて語られます。

「あかりをつけて、
 それを枡の下に置く者はありませんね。
 燭台の上に置くでしょう。
 そうすれば、
 家にいる人々全部を
 照らすことができるからです。
 同じように、
 あなたがたの光を
 人々の前で輝かせなさい。」と。

あなたがたの光を
人の前で輝かせるとは
どういうことでしょう。

「人々が
 あなたがたの良い行いを見て、
 天におられる
 あなたがたの父を
 あがめるようにしなさい。」

と、イエスは言われました。
つまり
「良い行い」をすることです。

でもこう言うと、
勤勉な日本人は、
きちんと良い行いを
しないといけないというふうに、
すぐに
律法的になってしまう
傾向があるようです。

これは、
自分の力で頑張って
良い行いをするということでは、
決してありません。

イエス・キリストを信じた時、
私たちの内には
イエス・キリストが
住んでくださいました。

このことを
「キリストの内住」と言います。

その内住しておられる
キリストが、
私たちを通して
「良い行い」を
なしてくださるのです。
そのことを信じるなら、
私たちの内に住み、
私たちと共に歩いてくださる
キリストが、
聖霊を通して、
私たちを良い行いへと
導いてくださるのです。

イエス・キリストを
信じた時、
私たちは
世界の光となりました。

頑張って
世界の光になる
必要はありません。
なぜなら、
私たちはキリストを
信じたので、
もう
「世界の光」に
なっているのです。

男性の人は
頑張らなくても男性です。
日本人の私たちは、
普通にしていても日本人です。

イエス・キリストを信じた時、
私たちの内に
キリストが住まわれたので、
私たちは
「世界の光」となったのです。

もう頑張らなくても、
普通にしていれば
「世界の光」なのです。

だから、
キリストを信頼して、
聖霊様の導きに従って
歩んでいきましょう。

その時、
燭台の上においてあるあかりが、
家にいるすべての人を照らすように、
私たちの内に住まわれる
キリストが
私たちに
「良い行い」をさせてくださり、
人々は
そのキリストの光に照らされて、
天におられる
私たちの神さま、
真の神さまを
あがめるようになるのです。



2016年5月30日月曜日

5/30(月) あなたがたは地の塩です。











「あなたがたは、地の塩です。」

    マタイの福音書5章13節



山上の垂訓と言われる

イエス・キリストの説教は続きます。



「あなたがたは地の塩です。

 もし塩が塩気をなくしたら、

 何によって塩気をつけるのでしょう。

 もう何の役にも立たず、

 外に捨てられて、

 人々に踏みつけられるだけです。」



と。

確かに塩気をなくした塩は、

もう何の役にも立ちませんね。

外に捨てられてしまいます。



イエス・キリストを信じた者は、

地の塩なのです。



もちろん、

私たちのうちに

何かがあるのではありません。



イエス・キリストが、

信じるその人のうちに

住まわれるので、

地の塩となるのです。



イエス・キリストとともに歩まず、

全く自分勝手な道に行くなら、

私たちも

塩気をなくした塩に

なってしまいます。



気をつけましょう。



でも安心してください。

イエス・キリストが、

私たちを見捨てたり、

見放したりする事は、

決してありませんから。



ただ私たちが、

心の内側から聞こえてくる

イエス・キリストの声を

無視して生きる時、

神さまの言葉よりも、

自分の考えを大切にして歩む時、



私たちは、

塩気をなくしてしまいます。



お互い、

十分に注意して、

主と共に行き歩んでいきましょう。


5/30(日)今日のみことば




2016年5月29日日曜日

5/29(日) 喜びなさい。喜びおどりなさい。

義のために
迫害されている者は 
幸いです。

天の御国は 

その人たちのものだから。

わたしのために 

人々があなたがたをののしり、 
迫害し、
ありもしないことで 

悪口を浴びせるとき、
あなたがたは幸いです。

喜びなさい。 

喜びおどりなさい。
天では 

あなたがたの報いは大きいから。
あなたがたより前にいた預言者たちを、
人々はそのように迫害したのです。


マタイの福音書5章10・11・12節




イエスさまはさらに続けて言われます。



「義のために迫害されている者は幸いです。」



義のためにとは、

つまり義である方、

キリストのために、

キリストのゆえに

迫害をされるとき、



イエス・キリストは幸いだ

と言われるのです。



迫害されることは辛いこと、

厳しいこと、

大変なこと

と言うならわかりますが、

幸いだと言われるのです。



なぜなら、

天の御国は

その人たちの者だからと。



もう少し具体的に言えば、

ありもしないことを言われたり

悪口雑言言われたりするときには、



「喜びなさい。

 喜びおどりなさい。」



と言われるのです。



それは、

そのような迫害を受けるなら

天では

大きな報いを受けるからだ

と言われるのです。



私たちがキリストを心から愛し、

真に従って行くなら、

この世では、

迫害を受けることは避けられません。

サタンが

この地上を支配しているからです。

もちろん、

主の許しの範囲の中かだけですが・・・



また実際に

迫害をしてくるのは人ですが、

その背後にサタンが働いています。

ですから、

迫害する人がいなくなったとしても、

また別の形で、

別の人が迫害してくるということが

起こるのです。



かつて

神の言葉を語った預言者たちも、

人々から、

そのように迫害されました。



時が流れ、時代が変わっても、

神の言葉を語るもの、

神の言葉に生きるものは、

必ず迫害を受け、

ありもしないことを言われるのです。



迫害されるのも、

ありもしないことを言われることも、

悪口雑言言われることも

嬉しいことではありません。



でも喜びましょう。

喜びおどりましよう。



イエスがそう言われたのですから。



私たちは、

その報いを天で受けるのです。

これは確かなことです。



どんな報いでしょうか。

殉教者が受ける冠?かもしれません。

どんなものかは分かりませんが、

それは確かなことです。



そして天の報いは

最高の祝福なのです。



神さまは

地上でも報いてくださいます。

しかし、

地上の報いはどんなに長くても120年、

多くの報いは、

永遠の御国である天には

持っていけないものばかりです。



しかし神さまが

与えてくださる報いは、

天の報いなのです。



これは永遠に残る

確かな報いなのです。



天国は本当にあるからです。



そしてその天国に私たちは、

イエス・キリストのみ前に悔い改め、

キリストを信じたのなら、

必ず行けるのです。



そして永遠に

私たちは、そこでやがて住まうのです。



これ以上に確かな場所、

大切な場所はありません。

そこで報いを受けるのです。



だから、迫害されるとき、

ありもしないことで悪口を言われるとき、

喜びましょう。

躍り上がって喜びましょう。



天で大きな報いが待っているから・・

2016年5月28日土曜日

5/28(土) 幸福(さいわい)なるかな、平和をつくる者。


平和をつくる者は幸いです。

その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

マタイの福音書 5章9節


イエスはさらに続けて言われます。

「平和をつくる者は幸いです。」と。

イエス・キリストは
「平和をつくる者」
と言われました。

注意して聞いてください。
「平和を語る者」
とは言っていないのです。

「平和をつくる者」
と言われました。

多くの人々が平和を語ります。

しかし、
平和を語りながら
誰かを責め裁き、
怒っていたりします。
謝罪しなければ許さないと
叫んでいたりします。

平和を語りながら、
平和ではなく、
争いや分裂を作っているのです。

イエスは
「平和をつくる者」
と言われたのには、
とても深い意味があります。

イエス・キリストは
十字架にかかり、
罪と全く関係なかった方が、
罪そのものとなって、
私たちの身代わりとなり、
ご自分を罪の生贄として捧げて、
私たち罪人である人間と
聖なる方である神さまとの和解を
成し遂げてくださったのです。

イエス・キリストは、
ご自分の命を捨ててまで、
私たち罪人である人間と
神さまの間に
和解をもたらし、
平和を作ってくださったのです。

だから私たちも、
平和を語りながら
混乱と破壊をもたらすのではなく、
イエスの足跡をたどり、
キリストの愛にならって、
平和をつくる者となりましょう。

その時、
イエス・キリストが
「神の子」
であったように、

私たちも
「神の子」
と呼ばれるからです。